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茶の輸出港をめざして

 東海道線が、明治22年(1889年)2月1日に開通したことで、清水港は大打撃を受けました。物資の輸送が海運から鉄道へと変わり、港の荷扱いは3分の1に激減し、港は急速に活気を失っていったのです。

 そこで外国航路に海運の活路を見い出そうと、清水町長望月万太郎をはじめ、清水の回漕業者と静岡県茶業組合連合会議所による開港運動が起こりました。

 そして、2回の陳情が実を結び、明治29年(1896年)10月念願の開港外貿易港に指定されたのでした。

茶の貿易とともに発展した静岡産業

写真:日の出波止場 茶の積出し港として清水港が発展したのは、静岡の茶産業を日本一に育てた先駆者たちの努力があったからです。

 明治39年、清水港から神奈川丸によってアメリカ向けの茶の直輸出が行なわれたのをかわぎりに、緑茶が主要輸出品として輸出量は増大し、大正7年には日本の茶の輸出量の8割を占めるようになりました。

 静岡県の茶産地は、古くから天竜川・大井川・安倍川の流域でしたが、茶の貿易が始まると、やがて牧之原、三方原、日本平など広い丘陵地帯での大規模栽培や山間地でも農家が専門的に栽培を始めるようになりました。

 清水では、有度山麓一帯、近隣の農家でも盛んに行なわれるようになりました。明治中頃までは農家の家内工業で行なわれていた製茶は、静岡市を中心に相次いでできた製茶工場で集中的に行なわれるようになりました。それに伴い、県内の茶生産量は全国の60%に及び、飛躍的に伸びました。

 そのような中、初代の袖師村長、県会議員を歴任した澤野精一(1835~1915)は、明治初年には広瀬村で茶園経営を始めたり、茶の輸出、茶業組合の組織化、製茶技術の導入、茶業の振興に大きな役割を果たしました。