清水港コラム

清水港のルーツをたどる

 清水港のルーツをさかのぼると、最初は原始的な渡し場であったと考えられます。

 日本書紀によれば、斎明天皇(660年)の頃、百済援助の軍船が清水港周辺で造られ、多くの軍兵が出発したと推測される記録があります。

 平安時代には避難港として、戦国時代には武将たちの戦略の要衝としての役割を果たしました。

 文亀元年(1501年)に今川氏が駿府に本拠を置いてからは、清水は砦(とりで)としてその水軍が管理しました。その後、武田信玄が浜清水に袋城を築き、軍事基地として軍船を建造しました。

 慶長10年(1605年)、徳川家康は軍事上、海上交通の要衝と考え、袋城を埋めて港町を作りました。港の中心は巴川岸に移り、江戸、大坂をはじめ東海各地との物資輸送の中継基地・清水湊として多くの廻船でにぎわい、大きく発展しました。

 明治11年、明治新政時代を迎え、波止場会社・博運会社により清水波止場が作られました。明治29年に開港外貿易港に指定、そして明治32年には開港場に指定され、清水港は国際貿易港として記念すべき近代化の一歩を踏み出しました。

海の東海道

写真:千石船 海にも東海道がありました。江戸時代には、天下の台所の大坂と百万都市の江戸とを結ぶ海上交通が非常に発達しました。

 「千石船」と呼ばれた菱垣廻船や、樽廻船といわれる定期船が運航し、物資輸送に活躍しました。

駿府を支えた清水湊

 将軍職を秀忠に譲った家康が駿府に居住したことで、清水湊は商業港・海の宿場としても発達しました。駿府城の修築・修理のための石材をはじめ多くの物資が巴川を上って、駿府まで運ばれました。

 慶長20年(1615年)の大坂の役の時、清水湊の商人たちが徳川軍の食料輸送などに活躍した功が認められ、家康から42軒の廻船問屋に営業の独占権が与えられました。これは商業活動のほかに沿岸警備や海難事務にもあたらせるもので、清水は近在の各湊から小廻船で運ばれる物資を大型船に積み替える中継基地として、大いに賑わいをみせました。


茶の輸出港を目指して

 東海道線が、明治22年(1889年)2月1日に開通したことで、清水港は大打撃を受けました。物資の輸送が海運から鉄道へと変わり、港の荷扱いは3分の1に激減し、港は急速に活気を失っていきました。

 そこで外国航路に海運の活路を見い出そうと、清水町長望月万太郎をはじめ、清水の回漕業者と静岡県茶業組合連合会議所による開港運動が起こりました。

 そして、2回の陳情が実を結び、明治29年(1896年)10月、念願の開港外貿易港に指定されました。

茶の貿易とともに発展した静岡の産業

写真:日の出波止場 茶の積出し港として清水港が発展した背景には、静岡の茶産業を日本一に育てた先駆者たちの努力がありました。

 明治39年、清水港から神奈川丸によってアメリカ向けの茶の直輸出が行われました。以降、緑茶の輸出量は増大し、大正7年には日本の茶の輸出量の8割を清水港が占めるようになりました。

 静岡県の茶産地は、古くから天竜川・大井川・安倍川の流域でしたが、茶の貿易が始まると、やがて牧之原、三方原、日本平など広い丘陵地帯での大規模栽培や、山間地でも農家が専門的に栽培を始めるようになりました。

 清水では、有度山麓一帯や、近隣の農家でも盛んに茶の栽培が行われるようになりました。明治中頃までは農家の家内工業で行われていた製茶は、静岡市を中心に相次いでできた製茶工場で集中的に行われました。それに伴い、県内の茶生産量は飛躍的に伸び、全国の60%に及びました。

 そのような中、初代の袖師村長、県会議員を歴任した澤野精一(1835~1915)は、明治初年に広瀬村で茶園経営を開始し、茶の輸出、茶業組合の組織化、製茶技術の導入、茶業の振興などに大きな役割を果たしました。


清水港の近代化に向けて

 清水港は、明治32年8月に開港場として指定されましたが、当時は大型船が接岸できる岸壁がなく、沖合での艀(はしけ)荷役に頼っており、荷物の積み込みや積み下ろしに多くの人手や時間を要していました。清水港は茶の輸出を中心に貨物が急増しており、近代的な港湾施設の整備が求められました。

近代化への第一歩

 明治42年から、静岡県により清水港第一期修築工事が実施され、江尻・日の出地区の船溜まりが整備されました。

 その後も貨物は増え続け、清水港の施設拡充に対する地域からの強い要請を受けて、大正9年に、国の清水港修築予算が認められました。翌大正10年、内務省直轄による清水港第二期修築工事の実施が決定し、10月1日に、内務省横浜土木出張所清水港修築事務所を開設しました。

 事務所開設直後から、測量や土地収用業務を開始し、大正11年から、航路の浚渫や大型船が接岸可能な岸壁(現・日の出岸壁)の整備、三保・貝島の埋立地造成などを進めました。

 岸壁の完成により、それまでの艀(はしけ)による沖荷役から、岸壁での直接荷役が可能となり、本船との荷役効率が格段に向上するなど、清水港の近代化の大きな一歩となりました。

 なお、現在の港湾工事は民間の建設会社が施工していますが、当時は港湾工事の技術を持つ会社が限られていたことから、第二期修築工事の多くは、事務所職員の直営施工により実施しました。

ケーソンの製作工事(コンクリートの打設)
(大正13年頃)

丙岸壁に第1船「泰仁丸」が入港(初の接岸荷役)
(昭和4年)

戦災からの復旧・復興

 昭和20年7月、空襲や艦砲射撃により、清水港の港湾施設は大きな被害を受けました。8月の終戦後も外国貿易は停止状態となっていましたが、翌年7月には米国からの救援物資を積んだ第1船が入港し、徐々に貿易が再開されました。

 地域の復興に向けて清水港の再建が急がれる中、当時の運輸省(現・国土交通省)は、旧・内務省清水港修築事務所の業務を引き継ぐ組織として、昭和22年5月に、清水港工事事務所(現・清水港湾事務所)を設置し、同年から昭和27年にかけて、清水港内の浚渫、岸壁の補修・改良、貨物上屋の整備などの復旧・復興工事を実施しました。

 地域経済の回復・成長に伴い、輸出入貨物が急増。昭和27年2月には清水港が特定重要港湾に指定され、以降、急速に近代化が進められることになります。

日の出岸壁と5号上屋
(昭和25年)

清水港 特定重要港湾指定祝賀式
(昭和27年)

地域の経済成長を支える港づくり

 戦後の経済復興により、静岡県内の産業は成長を続け、エネルギー源として石炭の需要が拡大しました。

 当時の清水港には、石炭を荷揚げする岸壁や貯炭場が十分に確保されておらず、大量の石炭を取り扱う施設として、昭和27年から昭和32年にかけて、水深9mの石炭岸壁を整備しました。

 その後、高度経済成長期に入り、清水港背後では製造業が急速に発達し、缶詰や合板等の輸出需要が高まりました。

 こうした輸出貨物の増加に対応するため、昭和37年に興津第1埠頭の工事に着手、昭和49年までに興津第1・第2埠頭の岸壁等が完成しました。

 かつて、興津地区から袖師地区にかけては、清見潟に代表される風光明媚な海岸が広がっていました。高度成長期における清水港の拡充整備は、この海岸の埋め立てを伴う大規模な工事となりましたが、その裏には、地域住民の皆様や漁業を営まれている皆様の多大なご協力やご決断をいただいたことを忘れてはなりません。

石炭岸壁と貯炭場
(昭和35年)
写真提供:鈴与株式会社

興津第1埠頭整備前(清見潟)
(昭和35年)

現在の興津第1・第2埠頭
(令和3年)



国鉄清水港線(臨港線)の軌跡

 清水港の発展とともに整備された国鉄清水港線(通称 臨港線)。貨物を運び、旅客を乗せ、清水港の物流や人々の生活を支えました。

 昭和30年代には、数少ない黒字線区として旧国鉄の赤字削減にも貢献しました。しかし、道路整備や輸送形態の変化などの時代の流れに伴い、昭和59年、68年間におよぶ歴史に幕を下ろしました。

写真:昔の風景

清水港の発展を支えた臨港線

写真:鉄道地図看板 大正5年7月に一部開通した清水港線は、清水港で荷揚げされた貨物を東海道本線江尻駅(現在のJR清水駅)に輸送する目的で建設されました。

 当初は、江尻駅~清水港駅間1.4キロを走る貨物専用の鉄道でしたが、昭和2年に日の出岸壁の一部が完成し、船の接岸荷役が行われるようになると、昭和5年に清水埠頭駅まで延伸されました。

 さらに、昭和10年代後半、貝島の埋立地に日本軽金属、日本鋼管、日立製作所などの大企業が進出し、貨物や旅客輸送のための本格的な臨港鉄道が必要となりました。

 昭和19年7月、清水埠頭駅から三保駅までの延伸により全線(8.3キロ)が開通し、当初は貨物列車だけが運転されました。三保の企業の従業員は、全線開通後しばらくは貨車に乗って通勤していましたが、同年12月、折戸駅の完成と同時に旅客列車の運転が開始されました。

日の出岸壁背後の引込線
(昭和5年)
写真提供:静岡県

石炭岸壁背後の公共臨港線
(昭和35年)
写真提供:清水埠頭株式会社

一時は全国一の黒字線に

写真:旅客列車  全線開通当初、三保半島は工業地帯以外は大半が田畑で、人口はわずかでした。乗客のほとんどは朝夕に利用する企業の従業員であり、旅客列車は朝夕の2往復しか運転されませんでした。

 しかし、三保地区の発展とともに乗客が増加、昭和27年2月には8年ぶりにダイヤ改正が行われ、旅客列車も増便されました。昭和30年代には、国鉄一の黒字路線になったこともありました。

巴川に架かる可動橋

写真:巴川にかかる稼動橋

 清水港線が走っていた頃、巴川には清水港線の可動橋が架かっていました。これは、列車が巴川を渡る時に、上がっていた橋桁が降りてきて列車を通行させるものです。

 全長88.3メートルの橋で、5基の橋桁のうち中央部が昇降する形式でした。鉄道の可動橋は全国でも佐賀線と桜島線と清水港線の3ヶ所しかありませんでした。

地域の憩いの場として親しまれる臨港線跡

写真:臨港線跡 清水港線の廃止後、跡地はサイクリングロードや遊歩道として生まれ変わりました。

 朝の通勤・通学の時間帯には、三保から清水市街へ自転車で通学する学生、三保の工場へ通勤する従業員の方々が利用しているほか、ウォーキングやランニングを楽しむ市民の方々も多く見られます。

 臨港線跡は、今では地域の憩いの場としてなくてはならない存在となっています。